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東京地方裁判所 平成元年(ワ)11188号 判決

主文

一  被告は、原告甲野一郎及び原告甲野花子に対し、それぞれ金一六八一万五七九五円、原告乙山竹夫に対し金一一一五万七八九七円、原告乙山松夫に対し金九七三万三三三五円及びこれらに対する昭和六一年二月二八日から支払済みまで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。

二  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用はこれを二分し、その一を被告の負担とし、その余を原告らの負担とする。

四  この判決は、原告ら勝訴の部分に限り、仮に執行することができる。

理由

一  請求原因1の(一)の事実は当事者間に争いがない。弁論の全趣旨によれば、同1の(二)の各事実を認めることができる。

二  請求原因2の事実は当事者間に争いがない。

三  請求原因3(一)について

請求原因3(一)(1)ないし(4)の各事実は当事者間に争いがなく、右争いがない事実に加え、《証拠略》を総合すると以下の事実を認めることができる。

1(一)  花子は、昭和五二年五月二二日、被告医院において第三子(原告竹夫)を出産し、昭和六〇年一一月二九日、腹部腫瘤感を訴えて再度来院し、超手拳大の子宮筋腫と診断されたこと、その際のその他の所見としては、食欲は正常、胸部正常、血圧一一八/七八であつたこと、

(二)  花子は、同年一二月二日、被告医院に来院して検査を受け、胸部レントゲンの結果は正常、心電図も正常範囲であつたこと、

(三)  花子は、同月三日、被告医院に来院して血液検査を受け、貧血と診断され、増血剤による治療後、手術を行うこととしたこと、

(四)  花子は、昭和六一年一月一三日の血液検査の結果、貧血も回復し、その他の検査で異常はなかつたので、被告は、同年二月二八日に手術を行うこととされたこと、

(五)  花子は、同年二月二七日午後二時三〇分、被告病院に歩行入院したこと、

(六)  被告が、同月二八日午前八時三五分、花子を回診した際、異常はなかつたこと、

2(一)  花子に対する子宮筋腫の手術(以下「本件手術」という。)は、被告が執刀医となり、福島統医師(以下「統医師」という。)が手術助手を、丙川秋子看護婦(以下「丙川看護婦」という。)が麻酔係を、矢島美智子準看護婦(以下「矢島準看護婦」という。)が手術器械の受渡しを、中山テル子準看護婦(以下「中山準看護婦」という。)が矢島準看護婦の補助の外雑用を、鈴木準看護婦、看護学生の佐藤外一名が注射やその他の雑用をそれぞれ担当して行われたこと、その際、丙川看護婦と矢島準看護婦の分担については、丙川看護婦が、麻酔係の経験があつたものの手術器械の受渡しをしたことがなかつたので、麻酔係を担当し、矢島準看護婦が手術器械の受渡しを担当することが話し合われたが、その他の看護婦らの役割の分担については、特に打合せはなされなかつたこと、

(二)  被告は、昭和二四年、医師免許を取得し、昭和三九年、被告医院の院長となり、昭和四一年、国立東京第一病院の麻酔科の研究生となり、昭和四二年、麻酔科標榜医の許可を得たこと、

(三)  丙川看護婦は、昭和一四年、正看護婦の資格を取り、同年から昭和二〇年まで、横須賀共済病院、同年から昭和二九年まで、岩手県稗貫郡八重畑村診療所、同年から昭和六〇年まで国税局市ヶ谷診療所にそれぞれ勤務し、同年に定年退職した後は、仕事につかず、昭和六一年一月、再び被告医院に勤務するようになつたこと、丙川看護婦は、麻酔科での訓練を受けた経験はなく、国税局市ヶ谷診療所に勤務していた期間の前半、病棟に勤務しており、年に二回くらい入院患者の外科の手術を手伝い、麻酔科の医師と交替して数分間患者の監視をした経験があつたこと、丙川看護婦は、本件手術の際、麻酔係として、バックに時折触れながら花子の呼吸状態を、花子の頚動脈を手で触れて脈拍の状態を、自動血圧計を見ながら血圧の状態をそれぞれ観察したこと、

(四)  矢島準看護婦は、昭和四五年三月、準看護婦の資格を取り、辰野総合病院に昭和四八年六月ころまで勤務し、その後、会社等の検診を行う労働衛生協会に昭和五〇年一〇月ころまで勤務した後退職し、昭和五六年ころ、被告病院に勤務を始めたこと、矢島準看護婦は、麻酔に関しての指導を受けたことはなく、また、被告病院に勤務する以前は麻酔を用いた手術に立ち会つたことはなく、被告病院に勤務を始めて一年程してから、同僚の看護婦らから教えてもらいながら麻酔を用いた手術に立ち会うようになり、本件当時まで、五回程全身麻酔の手術に立ち会い、外回りの雑用を三回程度、器械の受渡しを二回程度担当したこと、

(五)  中山準看護婦は、昭和四三年四月、準看護婦の資格を取り、昭和四四年ころ、樺島病院、昭和四六年ころ、ロイヤル病院、昭和五〇年ころ、被告病院にそれぞれ勤務し、昭和五二年ころ、妊娠のため被告病院を退職し、その後、緑川病院に約六年間、玉井病院に約一年間勤務し、昭和六一年一月半ばころ、被告病院に勤務するようになつたこと、中山準看護婦は、麻酔の指導を受けたことはなく、被告病院に勤務していた間、本件手術以前に、小手術には立ち会つたことはあつたが全身麻酔の手術に立ち会つた経験はなかつたこと、

(六)  鈴木準看護婦は、本件手術の際、出血量を量るなどの外回りの雑用をしていたこと、

(七)  本件手術の術式は、腹式子宮全摘、両側卵巣残留であり、麻酔方法は、自発呼吸が可能な持続腰部硬膜外麻酔、局所麻酔とされたこと、

3  花子は、昭和六一年二月二八日午後一時五分、手術室に入室し、被告は、尿道にバルーンカテーテルを留置して、ハルンバックに蓄尿を開始し、五パーセント糖五〇〇ミリリットルの輸液を始めたこと、

4(一)  被告は、同日午後一時一〇分、持続硬膜外麻酔のため、花子の第三腰椎と第四腰椎間にカテーテルを留置したこと、丙川看護婦は、マスクを軽く顔面に当て、麻酔器により毎分酸素六リットルの投与を開始したこと、

(二)  丙川看護婦は、同一五分、被告の指示に従つて、硬膜カテーテルから二パーセント・カルボカイン・五ミリリットルを注入したこと、

(三)  被告は、同二〇分、花子に足を動かすよう言い、足部前屈運動が正常であることを確認し、丙川看護婦に指示して、二パーセント・カルボカイン・一五ミリリットルを追加させたこと、また、輸液が乳酸リンゲル五〇〇ミリリットルに変更されたこと、

(四)  同二一分、自動血圧計(日本コーリン製BP一〇三N型)が花子の右腕に装着されたこと、しかし、自動血圧計は、花子の血圧及び脈拍数を測定できず、加圧し直しますとの表示が同二一分、二二分、二三分と表示され、同二四分には、血圧計あるいは被験者に異常あり確認して下さいとの表示があり、同二五分、加圧し直しますとの表示が再び出されたこと、このため、自動血圧計は花子の右腕から外され、同二八分、花子の左腕に装着し直され、血圧一二四/八〇、脈拍数八五を記録し、同三二分、血圧一三五/八五、脈拍数九二を記録したこと、

(五)  丙川看護婦は、同三五分、被告の指示に従つてホリゾン・一〇ミリグラムを側注したこと、

(六)  被告は、同三六分、花子が手術をしていることを意識しないよう入眠させるため、丙川看護婦に指示して、静脈麻酔剤のケタラール一〇を六ミリリットル側注し、毎分笑気四リットル、酸素二リットルとし、ヘッドバンドでマスクを固定し、自発呼吸で麻酔を維持したが、気管内挿管による気道確保は行わなかつたこと、

(七)  被告は、同三七分、花子が入眠したので手術を開始したこと、自動血圧計は、同時刻、血圧及び脈拍数を測定できず、加圧し直しますと表示したこと、

(八)  同三八分、自動血圧計は、血圧一五八/一〇三、脈拍数一〇五を記録したが、計測時の加圧が、同じく左腕から行われていた点滴の障害になるため、タイマーが三〇分間隔に設定し直され、血圧、脈拍数については、氏名は特定できないが看護婦が、水銀血圧計及び聴診法により測定して、口頭で麻酔係の丙川看護婦に知らせて麻酔表に記録することとしたこと、同五〇分の血圧は、一五六/一〇六、脈拍数は一一〇であつたこと、

(九)  被告は、同日午後二時、花子に子宮頚延長があることが分かり、子宮頚延長があると骨盤の奥深くまで手術操作をしなければならず、腸が出てくると操作が困難となるため、被告は、麻酔を深くする目的でフローセンを使用することにし、丙川看護婦に指示して、フローセン気化器に一〇ミリリットルを入れ、笑気三リットル、酸素三リットル、フローセン一パーセントで麻酔を維持したこと、同時刻、血圧は、一五八/一〇八、脈拍一〇二であつたこと、

(一〇)  同五分、血圧は、一六〇/九六、脈拍数は一一〇であつたこと、同七分、自動血圧計のタイマーが五分毎に設定し直され、血圧一六三/九六、脈拍数一〇九を記録し、同一二分、血圧一四二/八七、脈拍数一〇三を記録したこと、

(一一)  同一五分、乳酸リンゲル五〇〇ミリリットルが追加されたこと、同時刻、自動血圧計は、血圧一三二/八五、脈拍数一一五を記録し、同一六分、血圧一三八/七八、一三二/七九、脈拍数一一二、一一〇を記録したこと、

(一二)  被告は、同二〇分、丙川看護婦に指示して、硬膜外腔留カテーテルにより、二パーセント・カルボカイン・一〇ミリリットルを水平体位として追加注入し、数分後軽度骨盤挙上体位としたこと、

(一三)  自動血圧計は、同二一分、血圧一二五/七六、脈拍数一二一を記録し、同二六分、血圧一三四/七六、脈拍数九八を記録したが、同三一分、血圧及び脈拍数を測定できず、加圧し直しますと表示し、同三二分、血圧一二九/七七、脈拍数一二〇を記録したこと、

(一四)  被告は、同三五分、子宮摘出を終わり、骨盤膜縫合に移つて手術操作は容易になつたので、丙川看護婦に指示して、フローセンを〇・五パーセントに下げたこと、

(一五)  自動血圧計は、同三六分、血圧一四一/八二、脈拍数一二七を記録したこと、

5(一)  丙川看護婦は、同四〇分、麻酔器のバックの動きが弱まり、花子に呼吸抑制の状態が生じたのに気づき、被告に報告したこと、被告がバックを見たところ、バックの動きが弱いと感じたので、薬剤感受性の個人差に基づく麻酔剤の相対的過量と考え、丙川看護婦に対して、吸気時にバックを手で加圧する補助呼吸を行うよう指示し、また、直ちにフローセンを切り、笑気四リットル、酸素二リットルとし、次いで、笑気も切り、酸素六リットルとしたこと、手術野の血液の色は、鮮紅色を示していたこと、

(二)  同四一分、自動血圧計は、血圧一四九/八七、脈拍数一三二を記録したこと、

(三)  被告は、同四五分、丙川看護婦から、花子にチアノーゼが発現し、瞳孔が散大したとの報告を受け、骨盤膜縫合三分の二を終えたところで助手の統医師に後の縫合を任せて、麻酔係の丙川看護婦と交替し、花子の吸気に関係なくバックを加圧して吸気を送り込む人工呼吸を行つたこと、花子のチアノーゼは消失したが、瞳孔は散大したままであり、自発呼吸も弱まつてきたこと、被告は、花子に気管内挿管を行うこととしたこと、

(四)  被告は、同四六分、丙川看護婦に指示して、カルニゲン二分の一アンプル、七パーセント・メイロン・四〇ミリリットル(二アンプル)を側注したこと、自動血圧計は、同時刻、血圧一五〇/九一、脈拍数六〇を、同四九分、血圧八一/三一、脈拍数一二二を記録したこと、同五〇分、自動血圧計が装着し直され、血圧八七/四二、脈拍数九六を記録したこと、

(五)  被告は、同五一分、気管内挿管が完了したこと、この間、気管内挿管自体には一分を要したこと、気管内挿管が完了した時点で、花子の自発呼吸は停止しており、被告は、純酸素毎分六リットルによる人工呼吸を続行したこと、同時刻、自動血圧計が装着し直され、血圧八〇/三五、脈拍数一一五を記録し、同五二分、血圧五〇/二五、脈拍数一〇三を記録し、同五三分、血圧及び脈拍数を測定できず、加圧し直しますと表示し、同五四分、血圧九〇/四七、脈拍数一〇二を記録し、同五四分、血圧九〇/四七、八三/三六、脈拍数一〇二、一三二を記録し、同五五分、血圧一〇五/五一、脈拍数一〇三を記録し、また、体動ありと表示し、同五六分、血圧八二/四一、脈拍数一〇六を記録し、同五七分、血圧七三/一七、脈拍数一二〇を記録し、同五八分、血圧五四/一九、脈拍数一一二を記録したこと、

(六)  被告は、同五九分、花子の頚動脈に拍動を触れなくなつたので心停止と判断し、心マッサージを開始したこと、人工呼吸は看護婦が交替で行い、心肺蘇生術を施行したこと、同時刻、自動血圧計は、血圧及び脈拍数を測定できず、加圧し直しますと表示したこと、

(七)  同日午後三時、自動血圧計は、体動ありと表示し、また、血圧計あるいは被験者に異常あり確認して下さいと表示したこと、

(八)  同三分、自動血圧計は血圧一〇九/六〇、脈拍数七五を記録したが、その後、ほぼ一分おきに作動したものの、いずれも加圧し直しますといつた表示がなされ、計測できなかつたこと、

(九)  同三〇分ころ、腹壁の縫合が終わり手術は終了したこと、手術中の出血量は五三三・五グラム、手術野の血液は最後まで鮮紅色であり、チアノーゼはみられなかつたこと、直ちに被告と統医師が交替で心マッサージを続けたこと、

(一〇)  同四一分、自動血圧計が装着し直され、血圧一四四/九四、脈拍数六五を記録し、同四二分、血圧及び脈拍数を測定できず、加圧し直しますと表示し、同四三分、血圧一五一/六二、脈拍数一五四を記録し、同四五分から四八分までは、血圧及び脈拍数を測定できず、同四九分、血圧一五三/九〇、脈拍数一四九を記録し、同五〇分、血圧一〇三/六〇、脈拍数一三三を記録し、同五一分、血圧七三/二八、脈拍数一一五を記録し、同五二分及び同五三分、血圧及び脈拍数を測定できず、加圧し直しますと表示し、同五四分、血圧五六/二三、脈拍数八三を記録したこと、

6(一)  被告は、同五五分ころ、花子をICUに転送する目的で、まず、一番近い立正佼成会病院産婦人科部長小幡功医師に転送を依頼したが、一応蘇生が成功してからでないと受けられないと断られ、次いで、救命救急センターのある国立東二産婦人科部長山岡完司医師に電話をしたが、重症患者が入り満床であるが、収納可能なら電話をすると返答を受けたこと、

(二)  同五六分、自動血圧計が装着し直され、血圧一三五/七六、脈拍数一〇七を記録し、同五七分、体動あり、加圧し直しますと表示し、同五八分、カフホース点検と表示したこと、

(三)  被告は、同日午後四時、更に昭和大学病院ICUに電話したが、その状態では移送不能であり、もう少し状態が好転したら再び連絡するようにとの返答であつたこと、被告は、被告病院での蘇生を続けたこと、その際、花子に血管虚脱が生じ、血管が萎縮して確保していた血管から点滴が入らなくなつたこと、看護婦らは、血管確保を行おうとしたが、花子の全身の血管が萎縮しており、血管確保ができなかつたこと、

7(一)  同一一分、自動血圧計が装着し直され、血圧一〇四/五八、脈拍数八〇を記録し、同一二分、血圧四五/一七、脈拍数六九を記録し、同一三分、血圧及び脈拍数を測定できず、加圧し直しますと表示し、体動ありと表示し、同一四分、血圧五二/一七、脈拍数六六を記録し、同一五分、血圧及び脈拍数を測定できず、加圧し直しますと表示したこと、

(二)  被告は、同一六分、自動血圧計が、心マッサージによる血圧を記録するだけとなつたため、自動血圧計を外し、血管確保を行いつつ、心肺蘇生術を続けたこと、

(三)  被告は、同四〇分、花子が心肺蘇生術に反応を示さず、心尖部聴診で心音聴取せず、頚動脈、股動脈の拍動も触れず、瞳孔も散大したまま自発呼吸もでないので、死亡と判断し、統医師に心マッサージを止めるよう指示して人工呼吸のみを続行し、司法解剖を依頼すべく北沢警察署に電話をしたこと、

(四)  被告は、同四五分ころ、原告松夫に対して、花子の死亡を告げ、解剖を申し出、血管確保は中止して人工呼吸のみを続けたこと、

8(一)  同日午後五時一〇分、北沢警察署から係官が到着したが、被告が手術室に入り、花子の頚動脈に触れると、拍動が出現していたため、被告は、直ちに統医師を呼んで心マッサージを再開したこと、

(二)  被告は、同一四分、花子に自動血圧計を装着したこと、

(三)  被告は、同一五分、昭和大学病院ICUに電話で好転した旨連絡し、救急車で迎えに行くとの返事を得、心肺蘇生術を続けたこと、

(四)  被告は、同三〇分ころ、右手背静脈確保に成功し、乳酸リンゲル五〇〇ミリリットルの点滴を開始し、看護婦らに五パーセント糖五〇〇ミリリットルにイノバン・一〇〇ミリグラムを混合し、血圧一〇〇以上になるまで急速に滴下するよう指示し、Vc・五〇〇ミリグラム、ピロラーゼ・二〇ミリグラム、K二・一〇ミリグラムの混合と七パーセント・メイロン・六〇ミリリットル(三アンプル)を側注し、心肺蘇生術を続行したこと、

(五)  被告は、同四〇分ころ、右下肢大伏圧静脈を切開して、一九ゲージエラスターを留置し、乳酸リンゲル五〇〇ミリリットルを点滴したこと、

(六)  同四九分、花子の血圧が一〇〇を超えたので、被告は、心マッサージを中止し、人工呼吸のみを続行したこと、

(七)  同日午後六時二五分、北沢警察署の係官は、ICUへの転送が可能とのことで帰つたこと、被告は人工呼吸を続け、血圧はイノバン点滴を加減しながら維持したこと、

(八)  被告は、同四〇分、五パーセント糖五〇〇ミリリットル、イノバン・一〇〇ミリグラムを追加し、五パーセント糖一〇〇〇ミリリットル、イノバン・二アンプルとするよう看護婦らに指示したこと、

9(一)  同日午後七時一〇分、昭和大学病院ICU医師団が到着し、直ちに花子にモニターを装着して心肺蘇生術を施行し、被告は、医師団の指示に従い、乳酸リンゲル五〇〇ミリリットル、五パーセント糖五〇〇ミリリットル、イノバン・一〇〇ミリグラム、ラシックス・二ミリリットル(一アンプル)を使用したこと、

(二)  同三五分、尿量を確認したところ、三三〇ミリリットルであつたこと、

(三)  同日午後八時、尿量を確認したところ、四〇〇ミリリットルであつたこと、

(四)  同一〇分、花子は、救急車で昭和大学病院ICUへ向かつたこと、

(五)  花子は、昭和大学病院への転送当時、既に脳死状態に近く、同年三月一五日、脳死と判定され、家族の希望で生命維持装置により治療されたが、深昏睡・自発呼吸停止・脳幹反射消失の状態が続いたこと、昭和大学病院では、花子の症状について特段の検査結果等は出されなかつたこと、

10(一)  同年三月、摘出された花子の子宮について病理検査が行われ、子宮平滑筋腫であると診断されたこと、

(二)  花子は、同年四月四日午後二時二三分、心臓死となり、同日、花子の司法解剖が行われたこと、司法解剖の鑑定書においては、花子の死因は、脳機能障害であるが、その原因については不詳であるとされ、腹部手術部の縫合の状態及び手術創並びに諸処注射痕、小手術創及びその周囲組織などにおいて特に医療行為として不適当であつたと思われる所見は認められず、また、肺、下部脊髄において特に異常は認められず、薬物投与状況(例えば過量投与など)については、脳死に陥つたときから比較的長期間を経過しているため不明と言わざるを得ず、結局、特に医療行為として不適当であつたと思われる積極的な所見は認められないとされ、また、大動脈など血管系にも特に異常体質とする所見は認められないとされていること、

以上の事実を認めることができ(る)。《証拠判断略》

四  請求原因3(二)について

1  花子の脳機能障害の原因について

(一)  《証拠略》によれば以下の事実を認めることができる。

(1) 心停止の原因としては、麻酔剤と麻酔方法(麻酔剤の過量)、心迷走神経反射、出血性ショックのような不適当な静脈還流、心筋梗塞、冠硬化などの心筋障害、肺塞栓、重症動脈狭窄などの心循環系の閉塞、タンポナーデ性心嚢炎などの心の圧迫、低酸素症、高炭酸ガス症、伝導障害、電解質異常、薬物中毒、体質異常、過敏性などがあること、

(2) 頻脈とは、一般に成人では一分間の心拍数が一〇〇回以上の場合をいい、その原因として、麻酔導入時の興奮、浅麻酔時の刺激、手術中の出血、ショック及び外傷、心の刺激伝達系に影響を及ぼす麻酔剤、麻酔時交感神経性アミン剤の使用、交感神経興奮性を有する麻酔剤の使用などが挙げられ、血圧低下とは、一般に成人では血圧が安静時の二五パーセント以上減少する場合をいい、その原因として、出血、神経反射、換気不全、体位性低血圧、心不全、麻酔剤の過量などが挙げられ、低血圧と脈圧減少及び頻脈を伴う場合の原因として、外傷、出血、中毒症によるショック、深麻酔あるいは麻酔剤の過剰、代償不全性心疾患、冠動脈梗塞、麻酔時自律神経(交感神経)節遮断剤の使用が挙げられるとされること、

(3) 全身麻酔においては、四期以上の深さに達すると延髄が麻痺し、呼吸や心中枢が侵され重大な結果を招き、麻酔剤の過量で呼吸が停止するときは、三期四相であるが、循環系では頻脈と低血圧を呈するものの未だ機能を維持するので、麻酔剤の投与を中止し、高濃度酸素を人工呼吸によつて与え、麻酔深度を浅くし、麻酔深度が深くなるときは、適量の筋弛緩剤を使用すればよいが、麻酔剤の投与を中止しないで補助あるいは調節呼吸を行うと酸素の投与が十分であるにかかわらず、チアノーゼがみられ心停止を来すので危険であるとされること、

(4) 急性循環停止の予防及び対策としては、脈拍血圧の不断の触知が大切であり、治療に当たつては、急性循環停止が数秒間といえども速やかに心拍の改善を図ることが重要であり、脈、血圧、心拍が得られないときは臨床的には心停止が起こつたものと看做され、〈1〉直ちに執刀医に知らせるとともに大きな動脈の触診と出血を同時にチェックし、開胸時には心の色、形態、動きなどの状態をみ、〈2〉麻酔剤は中止し、呼吸嚢を一〇〇パーセント酸素で満たし人工呼吸をし、気管内チューブを挿入していないときは、口咽頭又は鼻咽頭エアウェイを用いてマスクによる気道確保をし、その後挿管すればよく、〈3〉麻酔剤はできるだけ洗い流し、〈4〉約八度のトレンデレンブルグ体位をとり脳への血流を促し、〈5〉適当な血液量を補い、〈6〉外科医は心マッサージにより完全な心収縮を図り、〈7〉助手は、心電図、除細動器、ペースメーカーを準備しなければならないとされ、循環系が正常限界内に達するところから自然呼吸が出現するが、麻酔剤の過量による心停止では延髄の麻痺をきたしているので予後は期待できず、この状態では、心は拡張期で停止しているので人工呼吸と心マッサージを合わせ行うとともにエビネフリンを心内に注射すると自然の心収縮がみられるが、なお、自然呼吸がみられないことがあるので、麻酔剤を中断し、麻酔深度が三期三相以下に浅くなるまで麻酔剤を十分に洗い出すことが必要であるとされること、

(二)  また、《証拠略》によれば、医学博士釘宮豊城は、その意見書の中で、花子の死因について、低酸素症が状況に最も適合するとし、その理由として、〈1〉血圧低下及び心停止をきたす前に、一過性に血圧の上昇と脈拍の増加をみていること、〈2〉心停止をきたす前に呼吸状態が悪化したこと、〈3〉いつたん拍動を停止した心臓が、救急蘇生により再び拍動を開始したこと、〈4〉しかしながら、脳の機能を回復することはできなかつたこと、〈5〉患者に対する麻酔管理が低酸素症を防止するには十分でなかつたと考えられること、〈6〉患者の様に術前全身状態が良好で、手術自体の危険性が余り高いとは考えられない場合、手術麻酔中の偶発症によりこのような重篤な結果を招くのは、手術麻酔中の低酸素症(多くは低換気に伴う)によることが最も頻度が多いことを挙げていることを認めることができる。

(三)  前記三で認定した事実によれば、花子の血圧及び脈拍数は心停止に至るまで左記のとおり推移しており、脈拍数については、同日午後二時二六分、同四六分、同五〇分を除き脈拍数一〇〇を超える頻脈の状態が続き、血圧については、平静時の血圧が一一八/七八であつたところ、手術開始の同日午後一時三七分から同日午後二時七分ころまでは、最大血圧が一六〇前後、最小血圧が一〇〇前後となり、その後、同三二分ころまでは、最大血圧が一三〇前後、最小血圧が八〇前後となつたが、同三六分には一四一/八二となつて、同四〇分、中村看護婦が呼吸抑制に気づき、同四一分、一四九/八七、同四五分、チアノーゼ出現、同四六分、一五〇/九一となり、心停止の一〇分前の同四九分には、八一/三一に低下し、同五五分に一〇五/五一に一次的に回復した以外は、低血圧、脈圧減少の状態に陥つている。

このような花子の症状は、全身麻酔においては、四期以上の深さに達すると延髄が麻痺し、呼吸や心中枢が侵され、麻酔剤の過量で呼吸が停止するときは、三期四相であるが、循環系では頻脈と低血圧を呈するものの未だ機能を維持するとの深麻酔又は麻酔剤の過量の症状に適合的であるということができること、また、医学博士釘宮豊城が、花子の死因を低酸素症とする理由として挙げる、血圧低下及び心停止前の一過性の血圧の上昇と脈拍の増加、心停止前の呼吸状態の悪化に適合すること、さらに、被告自身も、当初、花子の呼吸抑制は薬剤感受性の個人差に基づく麻酔剤の相対的過量と考えていたことからすると、花子は、薬剤感受性の個人差に基づく麻酔剤の相対的過量により、呼吸中枢が侵されて呼吸抑制に陥り、低酸素状態となつて心停止に至り、脳機能に不可逆的な障害を負つたと認めるのが相当である。

昭和六一年二月二八日

午後一時 三八分 血圧一五八/一〇三 脈拍数一〇五

同 五〇分 血圧一五六/一〇六 脈拍数一一〇

午後二時 血圧一五八/一〇八 脈拍数一〇二

同 五分 血圧一六〇/九六 脈拍数一一〇

同 七分 血圧一六三/九六 脈拍数一〇九

同 一二分 血圧一四二/八七 脈拍数一〇三

同 一五分 血圧一三二/八五 脈拍数一一五

同 一六分 血圧一三八/七八 脈拍数一一二

血圧一三二/七九 脈拍数一一〇

同 二一分 血圧一二五/七六 脈拍数一二一

同 二六分 血圧一三四/七六 脈拍数九八

同 三二分 血圧一二九/七七 脈拍数一二〇

同 三六分 血圧一四一/八二 脈拍数一二七

同 四一分 血圧一四九/八七 脈拍数一三二

同 四六分 血圧一五〇/九一 脈拍数六〇

同 四九分 血圧八一/三一 脈拍数一二二

同 五〇分 血圧八七/四二 脈拍数九六

同 五一分 血圧八〇/三五 脈拍数一一五

同 五二分 血圧五〇/二五 脈拍数一〇三

同 五四分 血圧九〇/四七 脈拍数一〇二

血圧八三/三六 脈拍数一三二

同 五五分 血圧一〇五/五一 脈拍数一〇三

同 五六分 血圧八二/四一 脈拍数一〇六

同 五八分 血圧五四/一九 脈拍数一一二

2  この点、被告は、花子の脳機能障害の原因は肺塞栓であるとし、その理由として、〈1〉本件では、手術開始から一時間以上、硬膜外腔留置カテーテルを通じて二パーセント・カルボカイン・一〇ミリリットルを追加注入して二五分経過した維持麻酔中に症状が発現して、呼吸抑制、顔面チアノーゼ(すぐに消失)、瞳孔拡大となり、その後、呼吸停止、心停止と急激に悪化したのであるが、麻酔剤の使用量は通常の範囲内であり、呼吸抑制の段階からすべての麻酔ガスを切り、直ちに純酸素のみで気管内挿管を行つて人工呼吸による呼吸管理を行い、心停止と同時に心マッサージを行い、顔面に見られたチアノーゼは直ちに消失し、手術野の血液は終始鮮紅色を呈していたのであるから、深麻酔であるならばすぐ回復するはずであるにもかかわらず、容易に回復するどころか悪化の一途をたどつたことからすると、心停止に至るような低酸素血症、高炭酸ガス血症は否定的であつて麻酔過誤とは考え難いこと、〈2〉肺塞栓の臨床症状は、軽い一過性の胸痛程度のものから、急激な呼吸困難から突然ショック状態に陥るものまで多彩で、最も多い症状は、突発する呼吸困難と胸痛であり、さらに咳又は不安感なども多く、意識障害や呼吸困難を伴うものが大多数であるが、臨床上無症候の場合もあり、肺塞栓の理学的所見では、多呼吸、頻脈、肺動脈第二音の亢進、発汗、チアノーゼなどがみられるところ、本件では、麻酔中で臨床症状から判断することはできず、理学的所見では、呼吸抑制に気づき、すべての麻酔ガスを切り、純酸素で補助呼吸を開始した同日午後二時四〇分以降、同五九分に心停止となり、同日午後三時三分には、血圧、心拍数が計測されたが、その後、血圧、脈拍の測定は不能となり、同四一分に至つて、再び血圧、脈拍数が測定されたことからすると、同日午後二時四〇分の呼吸抑制の時点で、骨盤内静脈に発生した静脈血栓が肺動脈幹部又は左右肺動脈分岐部に塞栓を起こし、肺循環が次第に遮断され、左心側への静脈還流が減少、消失するに至り、左心側の虚血、循環虚脱が起こつて自動血圧計の計測が不能となり、脳循環を含む循環虚脱のため、同日午後三時三分から同四一分までの三八分間、心マッサージを行つても循環虚脱にさらされて脳中枢に不可逆的障害を受けたもので、その間、塞栓を起こした血栓の自然融解も次第に進行し、同四一分以降、血流が少しずつ得られるようになつて、自動血圧が断続的に血圧、心拍数を計測するようになり、同日午後五時一〇分に至つて、塞栓を起こした血栓が完全に自然融解して左心系動脈内に血液が流れるようになつたと考えるのが自然であること、〈3〉本件においては、腹膜縫合、腹壁閉鎖の際、手術野にチアノーゼはなく、出血もみられなかつたことからも、花子の血流の欠如が裏付けられること、〈4〉肺塞栓が発症した後の血圧、脈拍の変化は、手術操作の影響によるものと考えられること、〈5〉被告作成の診療録に肺塞栓についての記載がないのは、本件当時、被告が花子が肺塞栓であることに気づいていなかつたためであること、〈6〉昭和大学病院でも肺塞栓についての検査がなされていないのは、花子が昭和大学病院に転送された時点では、既に血流が回復していたため、肺塞栓についての検査はなされなかつたと考えられること、〈7〉剖検において肺塞栓の所見は認められていないのは、事故発生から三五日を経た剖検であり、血栓の自然融解を考えれば、肺塞栓の所見がないとしても不自然でないことを挙げ、被告本人もこれに沿う供述をする。

(一)  しかし、《証拠略》によれば、医学博士釘宮豊城は、その意見書の中で、花子の死因が肺塞栓であるとすることは状況に合わないとし、その理由として、〈1〉臨床経過が恐らくは低換気によると思われる低酸素症による血圧低下、心停止とよく合致すること、〈2〉肺塞栓症に伴う典型的な所見がみられていないこと、〈3〉肺塞栓症に伴う典型的な所見が全くない肺塞栓ということももちろん可能性としてはあるが、患者を植物状態から死に至らしめるような循環不全、心停止を伴うような重篤な肺塞栓症では成書にみられるような所見が全くみられないということは考えにくいこと、〈4〉肺塞栓症の原因としては、血栓、ガス、脂肪、組織片(腫瘍)、羊水などがあるが、この場合は、血栓のみが可能性として挙げられるところ、患者には術前に下肢の血栓症があつたとの所見、既往がないこと、〈5〉被告の挙げている骨盤内血栓は、術後肺塞栓症の原因としての可能性は大きいが、術中のそれとしては考えにくいこと、〈6〉昭和医大集中治療室における入院時所見及び検査においても、肺塞栓症を疑わせる記録がなく、また、担当医師が肺塞栓症を疑つた形跡が全くみられず、したがつて、肺塞栓症の診断を確定するような検査も行われていないこと、〈7〉死体解剖鑑定書では、肺に何ら異常が認められておらず、また、下肢静脈、骨盤内腔静脈にも何ら異常が認められていないことを挙げていることを認めることができる。

(二)  そして、《証拠略》を総合すると、肺塞栓は、骨盤内手術により生じるが、その時期は、手術後早くとも数日後であり、所見として、頻呼吸等がみられ、急性の肺塞栓であつても事前に何らかの徴候がみられるのが大部分であり、肺塞栓の血栓の融解が生じるには早くとも二四時間を要し、ことに突然死をきたすような重篤な塞栓の場合には、これらの傾向が強まり、また、血栓の完全な融解が生じるのは稀であつて、仮に完全な融解が生じたとしても、相当程度の期間は肺機能、肺動脈に異常が認められるとするのが相当である。

(三)(1) 被告は、本件においては、血流が完全に遮断され循環虚血が生じ、心停止に至り、脳に不可逆的な障害を与えるような重篤な肺塞栓が、骨盤内の手術中の同日午後三時三分に生じたものの、同四一分までの三八分間で、閉塞した血栓が融解して血流が再開し、さらに同日午後五時一〇分までの約二時間で血栓が完全に融解したとするところ、前記認定によれば、花子には本件手術前特段の異常はみられなかつたのであるから、結局、子宮筋腫の手術中に突然右のような重篤な肺塞栓が生じ、しかも、今度は、約二時間という短時間で重篤な肺塞栓の血栓が完全に融解したということになる。

確かに、右(二)によれば、肺塞栓は、骨盤内手術により生じ得るが、その時期は、ほとんどの場合、早くとも手術後数日経過した後であるというべきであつて、心停止、延いては脳死に至るような重篤な肺塞栓であるにもかかわらず、それが骨盤内手術の最中に突然発生したとすることは、その経緯において急速にすぎ、肺塞栓の発生の機序として不自然である。

また、右(二)によれば、肺塞栓の血栓は融解しないものではないが、血栓の融解が生じるのは、早くとも塞栓が生じてから二四時間後で、突然死をきたすような重篤な塞栓の場合には、完全な融解が生じるのは稀であり、心停止、延いては脳死に至るような重症な肺塞栓の血栓が、約二時間で完全に融解したとすることは、時間的に余りに短く、不自然である。したがつて、被告の主張するような現象が本件において生じたと考えることは困難といわざるを得ない。

そもそも、前記認定によれば、被告が本件手術で使用した自動血圧計の作動状態は悪かつたのであり、花子の血圧及び脈拍数を再び計測し始めた同日午後三時四一分において、再装着されていることからすると、自動血圧計が血圧及び脈拍数を計測できなかつたのは、血流が欠如していたからではなく自動血圧計の作動状態が悪かつたためであるおそれが強く、被告の主張を採用することはできない。

(2) また、右(二)によれば、肺塞栓の典型的な所見として、頻呼吸等が挙げられ、心停止、延いては脳死に至るような重篤な肺塞栓の場合には、典型的な所見が見られるのが自然であり、また、仮に肺塞栓の血栓の完全な融解が生じたとしても、相当程度の期間は肺機能、肺動脈に異常が認められるはずであるところ、前記認定によれば、花子には、頻呼吸等の所見はなかつたのであり、また、昭和大学病院においても、肺塞栓であることをうかがわせる検査結果等はなく、剖検においても、肺、血管系の異常は認められていないのであるから、心停止、延いては脳死に至るような重症な肺塞栓の所見としては不自然であるといわざるを得ない。

(3) この点、被告は、《証拠略》を援用し、手術中に肺塞栓が発生する事例、典型的な異常所見が認められない事例が報告されていると主張する。

確かに、《証拠略》によれば、術中に肺塞栓が発生した症例を一〇件以上認めることができるが、そのうち死亡又は心停止に至つたような重症例は二件に止まる上、そのうち死亡に至つた一件は、手術前から肺塞栓の徴候である呼吸困難及び頻脈の症状を呈していた事例であり、心停止に至つた一件は、左大腿部の人工骨頭置換の手術中に発症し蘇生に成功した事例であつて、本件の花子の場合と同列に論じることは妥当でない。

(4) そして、前記1のとおり、花子の死因となつた脳機能障害の原因としては、麻酔剤の相対的過量により呼吸中枢が侵されて呼吸抑制に陥り、低酸素状態となつて心停止に至つたとするのが、事実の経過に適合的である以上、花子の死因が肺塞栓であるとの被告の主張は採用できない。

3  被告らの過失について

(一)(1) 前記認定によれば、本件手術で麻酔係を担当した丙川看護婦は、昭和六一年一月、被告医院に勤務するようになつたが、麻酔科での訓練を受けた経験はなく、国税局市ヶ谷診療所に勤務していた約三〇年間の前半、病棟に勤務しており、年に二回くらい入院患者の外科の手術を手伝い、麻酔科の医師と交替して数分間患者の監視をした経験があつたにすぎないこと、丙川看護婦は、本件手術の際、午後二時四〇分、花子の呼吸抑制に気づいたこと、同四五分までの間、被告の指示に基づき丙川看護婦が補助呼吸を行つたこと、しかし、同四五分、花子にチアノーゼが現れ、瞳孔が散大し、被告が自ら人工呼吸を行うようになり、気管内挿管を行うこととしたこと、同五一分、気管内挿管が完了したが、この間気管内挿管に一分を要し、気管内挿管を完了した時点では花子の自発呼吸は停止していたこと、同五九分、花子は心停止に至つたことが認められる。

(2) そして、前記のとおり、花子は、薬剤感受性の個人差に基づく麻酔剤の相対的過量により、呼吸中枢が侵されて呼吸抑制に陥り、低酸素状態となつて心停止に至つたものと認められる。

(二)  《証拠略》によれば、医学博士釘宮豊城は、その意見書の中で、本件手術においては、麻酔管理について患者の生命の安全を図るのに十分とはいえない状況があつたとし、その理由として、〈1〉手術に携わらず麻酔のみに専念する専属の麻酔担当医師がいなかつたこと、〈2〉被告が麻酔中の患者の状態の監視を託した麻酔担当看護婦は全身麻酔に対する経験が皆無に等しいこと、〈3〉自動血圧計が三〇分間作動していなかつたこと、〈4〉麻酔を開始し、看護婦よりの情報により麻酔に責任を持つべき麻酔科標榜医である被告はもとより、麻酔担当看護婦も自動血圧計が三〇分間作動していなかつたことを認識していなかつたこと、〈5〉硬膜外麻酔が不十分であることが判明した時点で、静脈麻酔薬及び揮発性麻酔薬により全身麻酔を開始しているが、この時マスクにより揮発性麻酔薬が投与されており、この方法は、気道確保に関しかなり困難性及びリスクを伴うが、その点を麻酔担当看護婦が十分に理解する能力、経験を有していたとは考えられないことを挙げていることを認めることができる。

(三)  右(一)のとおり、丙川看護婦が花子の呼吸抑制に気づいた午後二時四〇分から五分間は丙川看護婦による補助呼吸、その後は気管内挿管に要した時間は除き同五一分までの間は被告による人工呼吸が行われたにもかかわらず、同四五分にはチアノーゼ、瞳孔散大となり、同五一分には呼吸が停止しており、補助呼吸及び人工呼吸が功を奏していないこと、右(一)、(二)のとおり、丙川看護婦は、被告病院に勤務を始めた直後であり、麻酔係としての経験が乏しかつたといわざるを得ないことからすると、丙川看護婦が花子の呼吸抑制に気づく前から、花子は呼吸抑制の状態に陥つており、丙川看護婦がこれを見落としたこと、あるいは、丙川看護婦の補助呼吸の施術が花子の深麻酔への処置としては不十分であつたことが推認される。この点、被告は、術中は麻酔係看護婦に指示して、血圧、脈拍、呼吸を厳重に観察・管理していたと主張し、証人丙川秋子もこれに沿う証言をするが、同人の麻酔管理についての証言は曖昧であつて採用できない。

そして、麻酔を施した手術を行うに当たつて、手術に立ち会つた医師、看護婦らは、患者の血圧、脈拍、呼吸を厳重に観察・管理して、常時患者の状態を把握すべき注意義務を負い、患者に深麻酔等の異常が生じた場合には速やかに適切な処置を行うべき義務を負つているというべきであるところ、右認定によれば、本件手術において、麻酔係を担当した丙川看護婦は、その経験不足のため、同日午後二時四〇分以前から生じていた花子の呼吸抑制を見落とし、あるいは、同時刻から行つた補助呼吸の施術が花子の深麻酔に対する処置としては不適切であつたのであるから、丙川看護婦は、右注意義務を怠つたというべきである。

また、手術の主宰者である医師は、右の注意義務を的確に行うことのできる知識と経験を有する看護婦らを手術に立ち会わせるべき注意義務を負つているというべきである。しかし、右認定によれば、丙川看護婦が同人の注意義務を的確に履行できなかつた原因は、丙川看護婦の麻酔係としての経験不足によるものであるから、そのような丙川看護婦に麻酔係を担当させた被告も、注意義務を怠つたというべきである。

4  前記認定によれば、麻酔剤の過量で呼吸が停止するときは、三期四相であるが、循環系では頻脈と低血圧を呈するものの未だ機能を維持するので、麻酔剤の投与を中止し、高濃度酸素を人工呼吸によつて与え、麻酔深度を浅くし、麻酔深度が深くなるときは、適量の筋弛緩剤を使用すればよいとされるのであるから、丙川看護婦が早期に花子の呼吸抑制に気づき、有効な補助呼吸を行うとともに、被告が速やかに気管内挿管を行い高濃度酸素による人工呼吸を行つていたならば、花子が低酸素状態となつて心停止に至ることはなかつたものと認められる。

5  以上によれば、その余の点について判断するまでもなく、被告は、注意義務を怠つた丙川看護婦の使用者として、また、自らの注意義務を懈怠した者として、花子及びその家族が被つた損害を賠償すべき義務を負う。

四  請求原因4(花子の逸失利益)について

1  花子の逸失利益

金四八五七万八九七八円

《証拠略》によれば、花子は、昭和二一年九月一五日生まれであり、本件当時満三九歳であつたことを認めることができ、六七歳まで就労が可能であつたことになる。そして、労働省発行の賃金センサスにおける女子の企業規模計、新高卒、各年齢別の平均賃金は、別紙記載のとおりであることは当裁判所に顕著な事実であり、これを花子の年齢にあてはめた上、ライプニッツ係数により中間利息を控除し、生活費として三割を控除した金額が花子の死亡による逸失利益となると認められるところ、これによれば花子の逸失利益は別紙記載のとおり、総額金四八五七万八九七八円となる。

2  花子の慰謝料 金三〇〇万円

前記事実からすると、花子に対する慰謝料としては、金三〇〇万円が相当である。

五  請求原因5について

弁論の全趣旨によれば、請求原因5の事実を認めることができる。したがつて、原告一郎及び原告春子は、それぞれ花子の損害の各五分の一、金一〇三一万五七九五円を、原告竹夫はその一〇分の一、金五一五万七八九七円を相続した。

六  請求原因6(原告松夫の損害)について

1  請求原因6(一)(治療費)

金二〇〇万六五三五円

前記認定によれば、花子は、昭和六一年二月二八日から、同年四月四日までの間、昭和大学病院に入院して治療を受けており、弁論の全趣旨によれば、原告松夫が、その治療費として、金二〇〇万六五三五円を支払つたことを認めることができる。

2  請求原因6(二)(付添看護費用)

金一八万円

前記認定によれば、花子は、昭和六一年二月二八日から、同年四月四日までの三六日間、昭和大学病院に入院して治療を受けている。親族による付添看護費用については、一日当たり金五〇〇〇円と認めるのが相当であるので、合計金一八万円が原告松夫の損害として認められる。

3  請求原因6(三)(入院雑費)

金四万六八〇〇円

前記のとおり、花子は、昭和大学病院に三六日間入院しており、その間の入院雑費としては、一日当たり金一三〇〇円と認めるのが相当であるから、合計金四万六八〇〇円が原告松夫の損害として認められる。

4  請求原因6(四)(葬儀費用等)

金一五〇万円

弁論の全趣旨によれば、原告松夫は花子の葬儀等を行い、その費用を支出したことが認められるが、そのうち金一五〇万円が本件不法行為と相当因果関係がある損害と認めるのが相当である。

5  請求原因6(五)(原告松夫の引越費用等)

本件不法行為と原告松夫の引越しとの間に相当因果関係があると認めるに足りる証拠はなく、原告松夫の請求は理由がない。

6  請求原因7(六)(家政婦代)

《証拠略》によれば、原告松夫は、原告竹夫の日常生活の面倒をみるため家政婦を雇い、家政婦代として金二六八六万円を支出したことが認められる。しかし、原告竹夫の日常生活については、本来であれば母親である花子が面倒をみるのが自然であつて、家政婦代の請求は、花子の逸失利益の請求と重複すると言わざるを得ず、あるいは花子が面倒をみないのであれば、結局、家政婦代の支出を免れることはできなかつたのであるから、原告松夫の家政婦代の請求は理由がない。

七  請求原因7について(慰謝料)

前記認定事実からすると、原告らの精神的苦痛を慰謝するためには、原告ら各自について金五〇〇万円とするのが相当である。

八  請求原因8について

原告らは、原告ら訴訟代理人らに依頼して、本訴を提起、追行していることは訴訟上明らかであり、本件事案の難易度や認容額、本件不法行為時からの本訴提起までの期間、その他諸般の事情を考慮すると、原告らが原告ら訴訟代理人らに対して支払うべき手数料のうち、被告に対して賠償を求めることができるのは、原告一郎及び原告春子についてそれぞれ金一五〇万円、原告竹夫及び原告松夫についてそれぞれ金一〇〇万円と認めるのが相当である。

九  以上の次第で、原告らの本訴請求は、不法行為に基づく損害賠償請求として、被告に対し、原告一郎及び原告春子は、それぞれ金一六八一万五七九五円、原告竹夫は、金一一一五万七八九七円、原告松夫は、金九七三万三三三五円及びこれらに対する本件不法行為のあつた日である昭和六一年二月二八日から各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度において理由があるからこれを認容し、その余はいずれも失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法八九条、九二条本文を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 星野雅紀 裁判官 金子順一 裁判官 増永謙一郎)

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